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危機理論とは


  1. 危機理論について
     危機理論は、キャプラン(Gerald Caplan)とリンデマン(Erich Lindemann)らによって1940年代から1960年代にかけて構築された理論です。
     社会福祉、地域精神衛生、精神医療、急性期医療、災害医療、ターミナルケアなどで活用されることが多い理論です。

  2. 危機とは
     危機(crisis)という言葉の語源は、ギリシャ語のカイロスという言葉に由来し、神との出会いや運命の時を意味するものだと言われています。危機という日本語も、「危」はあぶない、不安定、険しいなどといった意味であり、「機」は時機、機会などの用い方をし、転換期としての意味があります。臨床で患者の重篤な状態を危機と表現する人もいますが、危機には経過の岐路、分かれ目といった意味が含まれており、全てが悪い状態ではなく良い方向に向かう出発点にもなるということを示しています。

  3. 危機理論における危機の定義
     危機理論の創始者ともいわれているキャプランは、「クライシス状態は、人生の重要な目標に向かうとき、障害に直面し、一時的、習慣的な問題解決を用いてもそれを克服できないときに発生する状態である。混乱の時期と動揺の時期が結果として起こり、その間、解決しようとする様々な試みがなされるがうまくゆかない。結果的にはある種の順応が、その人やその人の仲間にとってもっとも良い結果をもたらすかもしれないし、そうでないかもしれない形で達成される。」(1961)と、定義しています。また、危機を別な観点でとらえ、「危機とは、不安の強度な状態で、喪失に対する脅威、あるいは喪失という困難に直面してそれに対処するには自分のレパートリーが不十分で、そのストレスを対処するのにすぐ使える方法を持っていないときに経験するものである。」(1964)とも述べています。
     また、ブルームは「危機とは、ある特別な出来事に続いて必然的に起こる状況と定義できる。危機は危機を促進する出来事から始まるもので、それに続いて、危機か否かを識別するような反応を生じないこともあるし、1ヶ月かそこらで解決されたように見える反応が現れる場合もある。」(1963)と述べています。
     クスは、「危機というのは、個人が持つ普段有効な問題解決能力が使えない、または、その機能が大きく低下している心理的な非常事態を示すものである。」(1985)と述べています。
     さらにウォルカップは、危機を1つの過程としてとらえ、次のように定義づけています(1974)。
    @まず精神のバランスを保つシステムに何らかの変化が起きる。Aそのシステムがその人の内面からの要求と、現実に起こっている外界からの要求とのバランスが崩壊していると感知する。Bそして、このシステムは習慣的に問題解決能力使用する(能動的援助)と同時に、状況的に自分が助かるようなことが起こることを願い(受動的援助)、崩れてしまったバランスを取り戻そうと試みる。Cこの両方の援助方法が問題解決に失敗してしまう。Dそして、どうすることもできないような無力感や何をしても無意味に思えるような感情が混乱した行動となって現れる。

  4. 危機の種類
     危機には、その根源によって大きく2つの種類があります。1つは発達段階における危機(Maturational or developmental crises)で、もう1つは、状況的な危機(Situational crises)です。
     前者は、幼児期、思春期、老年期および結婚、定年などの発達、成熟に伴う人生の特定の時期で発生する予測し得る特有の危機的状況です。発達的危機の代表的理論モデルには、エリクソンの人間性の生涯発達に関する8つの段階各期に見られる発達的危機があります。
     後者の状況的危機とは、失業、離婚、別離などの社会的危機(Social crisis)や、火災、地震、暴動などの偶発的危機(Accidental crisis)を含む、予期し得ない出来事によって身体的、心理社会的に安定した状態を脅かすものです。状況的危機を説明する理論は、リンデマンの急性悲嘆反応を考察したものと、精神分析学、自我心理学をベースにして定式化したキャプランの理論が基本的理論としてよく知られています。危機理論といえば、後者のことを意味する場合が多いです。

  5. 危機の考え方
     急病や外傷、病気の急性憎悪などの危機的状態が発生すると、心理的にはまず最初に平衡状態を保っていた心の状態が揺さぶられることになります。この状態を発生させるトリガーとなるものを、難問発生状況(hazardos environment)と呼んでいます。この事態は、病気に限らず前述したとおり成長発達におけるライフサイクルを通じ、あるいは他の状況的、偶発的な出来事にも脅威、喪失、挑戦などといった形で生じるものです。
     この難問発生状況によって心理的恒常性(心理的安定性)が損なわれるところから、その恒常性を取り戻し適応へと至る(あるいは逆に危機へと至る)心の過程を記述するものが、危機理論の主な概念です。
     ところで、著名な生理学者ベルナールは、生体の基本的機能として、身体の“内部環境の恒常性”の概念を提唱しました。この概念を発展させたキャノンは、ホメオスターシスというキーワードを用い、生活体には環境の変化に対して自分自身を変化させ、生理的均衡を維持する機能が備わっていると論じました。こうした生理的恒常性の維持機能と同様に、生体には心理的にもその恒常性の維持機能が備わっているという考え方が危機理論の出発点になっています。
     危機理論では、“危機はそこにとどまり続けるものではなく、適応への過程の出発点として捉えられ、人は心理的な危機状況に陥ったとき、本来備えている適応行動としての様々な対処機制を用いて心理的恒常性を維持するものである”という前提をしています。
     一般に、危機状態はネガティブなものとして受け取られやすいのですが、その状態は時間的に限定されるものであって、転換期としての重要性を持っています。危機を転換点として捉えることによって、危機には成長を促進させる可能性(growth-promoting potential)が内在していると定義づけることもできます。トーマスは、危機を触媒(catalyst)とみなしており、古い習慣を動揺させ打ち破り、新しい反応を引き起こし、新しい発展を促す大切な要因であることを示しています。また、ラパポートによれば、こうした成長を促進させる可能性を持った危機状態とは、ある一定の病的平衡が保持された状態である“病気”ではないと言っています。
     以上、危機をこのように特徴づけると、そこに付随する不安や恐れや抑うつなどの心理的混乱は、病的なものではなく、適応への過程における一時的な心理的防衛反応と解釈することができます。しかし、様々な要因によって不適応反応から一段と悪化した心理的異常(病的反応)へと傾く場合もあり、この転換期としての危機状態に対する危機介入(crisis intervention)が重要となるわけです。